2015
06.17

水無月の雨音を聞きながらの再掲載

Category: その他
最近、カタツムリを見ない。
カタツムリとナメクジは同類だけど、カタツムリは乾燥を防ぐために大きな殻を持つことを選択し、ナメクジは自らねばねばの液を出すこととした。
結果、ナメクジが以前と変わらずに生息しているのに対し、重い殻は行動範囲を狭め、カタツムリは自然の減少と共に淘汰されていっているようだ。
カタツムリは生存競争に負けてしまったのだろうか???

そんなカタツムリを思いながら、今日は昨年の6月に書いた記事の再掲載……。


子供の頃、学校からの帰り道は、楽しい遊び道具で満ち溢れていた。
晩春にたんぽぽの綿毛を見つければ、ふーっと息を吹きかけ宙に飛ばし、夏にはおしろいばなのパラシュートに夢中になった。秋になれば道ばたに成るザクロの実をチュッと吸って、冬の白い息で指に挟んだヒイラギの葉をくるくると回した。

振り返ると、当時は、頭の中に鮮明な「帰り道マップ」ができていたように思う。
それも「自然と一体化」したマップが。
植物だけではない。
どこの山のどの木にクワガタがいるとか、ザリガニを釣るポイントはどこだとか、オニヤンマはどこで待ち伏せるとか……。

もっとも、そのマップが活躍したのは小学校低学年の頃までのことで、高学年になると周りの友だちも含めて興味の対象も変わり、次第に「道ばたの遊具」からは心離れ、マップも記憶の押し入れの彼方へとしまい込まれてしまった。

あのマップはどこへ行ってしまったのだろう?
確かにあったはずの、マップ。

「カラスなぜなくの♪」と無邪気に歌っていた瞳は憎しみでしかカラスを見れなくなり、「雪やこんこ♪」と大喜びした雪の日は鬱陶しい以外の何ものでもなくなった。

オムライスにしても同じだ。

玉子のトロトロ感がいいとか、チキンライスの香ばしい炒め具合がいいとか、そんなことばかりを口にするようになった。
子供の頃は、味が云々ではなく「今日のご飯はオムライス!」ということだけを、素直に喜んでいた。

「感性と夢の世界」から「理性と現実の世界」へ。

とても素敵な夢を見ていたんだけど……。
子供から大人になることは、まるで、寝ているときに夢を見て、やがて目が覚め、まだボーっとしているときは夢の内容を覚えているのだけれど、目が覚めると忘れてしまっている、そんな状態に似ているような気がする。

「はい、起きて顔を洗って歯を磨いて。夢の世界はしばらくの間しまっておきなさい」
誰かの、そんなささやきが聞こえる。

「人情の機微に触れ、大切なことは何かをしっかりと考えて、今を生きなさい」
ささやきが、ポンと背中を押す。

子供から大人へ、そして、やがてまた童心に返る。
時空を駆け巡る、永遠の、輪廻。


6月。本格的な梅雨に突入。
命の雫と化した自然の恵を受け、紫陽花が次第に色づいてきた。

そう、紫陽花と言えば……。
すっかり忘れていたけれど。

紫陽花の葉にいるカタツムリと遊んだっけ。
もう、どれくらい見ていないだろう……。

「でんでんむしむしカタツムリ♪」

水無月の雨音に耳を傾けて、今年は探してみようかな、カタツムリ。

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